自分は「求心力」が足りない

のだ。少なくとも職場では。これを何とかせねばならぬ。偉い人から、来年一年間は求心力を養えと言われた。人を巻き込んで、うまいことチームで仕事をする訓練をしろと。いまの自分はあまり人に頼っていない。≒信頼してない。信頼してないから、仕事をなかなか振らない。結果的に、自分はパンクしそうになるし、相手へのイライラが募るし、相手も自分が何をやってるか分からないので、「よく分からない奴だ」と壁を作る。おれも相手に歩み寄ることをしないので、問題は一向に解消されず。でもとりあえずは真面目にやってるもんだから、上司もおれにそういう欠点を指摘し辛くなる。何という悪循環か。
今年一年、実際のところは、その辺の統率スキルはあまり磨かれなかったのだ。人間の集団を同じ方向に向かせることは本当に難しいのだということがよく分かった。上司いわく、やっぱり雰囲気作りは大切らしい。自分が一番大嫌いな、「明るい職場」作り。職場に明るさがどうして必要なのかと、ある時から思っていた。たぶん前の上司の影響だ。これは一匹狼でもいいという主張とともに、集団の中でうまくやっていけないという自信のなさの表れでもある。自分が明るい職場を作ろうとすると、どうしても「慣れ合い」に発展しそうだったので、この一年は敢えてそれをしなかった。でも結果はご覧の通り、あまりよろしくない。当初は黙々と自分の仕事をこなし、シビアな空気を出して、みなまで言わずとも周りが付いてきてくれるようにと努めていたが、この手法でうまく事を運ぶには、よほど適したキャラクターでないと厳しいらしい。
これまでほとんど笑顔とか愛想を振りまかなかった自分が急に変わるのは、傍から見ても多少不気味だろうが、来年度ばかりは年貢の納めどきのようだ。何でなのか、昔からこういうのが一番苦手。人のために何かするとか、場を盛り上げるとか、楽しそうにふるまうことが、もの凄く苦手だ。もちろん、自然に楽しいときは楽しいけども、そういう人間の中に自然に湧きあがってくるものを意図的に生み出すことに嫌悪感を抱いてしまう。笑いも涙も、芸術と呼ばれる分野もその対象になる。分かりやすいところで、自分がカラオケが苦手な理由がこれだったりする。誰かが一生懸命それなりに思いを込めて作った音や詞を、嘘っぱちなデジタル音で再現して、他人がそれを使ってその場のノリや雰囲気を意図的に作ってしまうあの空気が、自分には本当に辛い。日頃の自然な流れの中でそういうものに触れ、感じ取り、自然な方向へまた流す。自分の根底には、なぜか常にそういう考えがあった。一方、それが災いしたことも多々あった。
醜悪極まりないかもしれないが、人の「Happy」や「Joy」のために自分を作り替えたり、自分を糧とすることがとても苦手だ。たぶん、自分のことがとても大事で好きなのだ。こういうのを何て言うんだ?ナルシズムで合ってるのか?このままでは、たぶん人生における機会損失みたいなことが結構あるはずで(実際にあったし)、そういう訓練はいつかしなければならないと思っていた。この手の振る舞いを自然にできる人が羨ましいと、何度思ったか分からない。ここ数年で、人間は1人じゃ生きられないこともよく分かったので、良い機会ではある。自己の内面を見つめることを修練と思ってきたが、その分、集団の中で生きるスキルを伸ばすことから目をそらしてきた。来年度いっぱいで、何とかそのツケを払い終えたい。変化を恐れるな、とか言って、割と恐れている自分に気付いてしまった。

          • -